西野園芸について |
カサブランカを主体に八丈島でユリの栽培・産直をしています。 始めたのは今から約18年ぐらい前、三宅島でそれまではレザーファンの切り葉をしていましたが、新たな作目として全く経験が無かったのですが、色々な方に教えてもらいながら始めました。 西野悦子です。この度、夫直樹が明日葉の加工工場を始めたため、ユリの産直の西野園芸の代表者につきましては私が替わることになりました。今まで同様宜しくお願い申し上げます。 私は生まれは関西の神戸ですが、幼い頃に東京に引越し殆ど東京育ちです。島に来る以前は4年程食品輸入関係の会社に勤めていました。(夫とは社内結婚です)自他共に認めるマイペース型ですが、学生時代にバレー部で鍛えているので、結構根性はあるほうだと思います。。 結婚後直ぐに島に移り住み自然豊かな島での暮らしを初体験。最初は2-3年で又東京に戻る事になるのかと漠然と考えていましたが、浪速のど根性の夫がそれで済む筈も無く、気づけば20年近く三宅島で暮らしました。島に来たばかりの頃はかなりカルチャーショックを受けましたが、自然が身近にある島の暮らしを通して、人間も自然の一部だと言う事を体感できました。 特に都会では難しい子育てについては、3人の子供達を島の自然や周りの方達のお陰でのびのび育てる事が出来た事に感謝しています。 仕事に関しては、島に来て初めて体験する事ばかりで最初はかなり大変でしたが、ユリを通して、お客様に喜んで頂ける仕事ができる事を嬉しく思っています。 18年の間に出来たお客様との信頼関係を大切に、これからも品質やサービスに関して満足していただけるよう努力してまいります。 夫、西野直樹です。 三宅島に行った当初は主に漁業をしていましたが、風の強い島では年間に漁に出られる日も限られてしまうので、副業としてレザーファンの切り葉栽培を始めたのが、農業を始めたきっかけです。その後15年位三宅で農業を続け、ハウスは30棟位に増えていきましたが、2000年夏の大噴火で全てのハウスがダメになってしまいました。この時のショックはかなり大きく、それが癒えるまでには相当な時間がかかりました。 2000年噴火の際、島全体に大量の火山灰が降り積もり、当園のハウスもすっかり灰に覆われてしまいました。その時はちょうど子供達の夏休み中だったので、必死に灰落としを手伝ってくれた事は今も鮮明に蘇ってきます。その後4年の全島避難になり、ガス等の影響で30棟のハウスもすっかり朽ち果て、竹林となってしまいました。 2005年に避難解除となり、以前レザーファンのハウスが沢山建っていた場所は、災害復旧で一旦更地になり、三宅の方のご協力の下、明日葉畑に蘇りました。 避難中の2001年、長期の避難が予想されたため、当時主人は単身八丈島に渡り、ユリ栽培を再開、それまで約10年間続けていたユリの産直を再開する事になりました。八丈の方にハウスを貸していただいたり、町営住宅を用意していただいたりすっかりお世話になりました。現在は避難解除になりましたので、普通の民間住宅を借りております。 ユリの産直につきましては主に八丈島でやっています。 なるべく通年出荷を目指していますが、夏場にはちょっと途切れてしまいます。 特にお中元やお歳暮のシーズンには出荷ピークになるため、てんてこ舞い。翌日配達になるよう午前中に郵便局に持ち込みます。地元の主婦の方にもパートでご協力お願いしています。 普段も植え付け、草取り、球根の堀上など忙しい時にはお手伝い頂けて大変助かっています。 2000年三宅島の西野園芸 2000年三宅島噴火の様子 |